コロナ禍でも世界中日本食がブームになり、日本食店は8年間で3倍に。
インフレもあり寿司職人の給料は日本の倍。
海外進出は寿司職人が1番やりやすいかもしれない。
すし職人の争奪戦
本場日本のすしシェフ求む――。
世界で日本食ブームが広がる中、すし職人を巡る争奪戦が巻き起こっている。
新型コロナ禍で日本に行けなくなった富裕層向けに、日本人シェフの需要はますます拡大。
柔軟性とコミュニケーション力を備えたすし職人は高給で引き抜かれることも少なくない。
すしブームを担う職人の争奪戦をのぞいた。
「This is Otoro.Can see?(こちらが大トロです、見えますか?)」。
マレーシアの首都クアラルンプールの高級すし店「寿司織部」のカウンター。冗談を交えつつ、小気味よくすしを差し出していくのはマスターシェフの川崎直也さん(46)だ。
「Very Oily. Natural SK―Ⅱ(すごく脂が乗っている。天然の高級スキンケア化粧品です)」
歌って踊って和食エンタ
川崎さんはマレーシアを代表するすしシェフの1人だ。
シェフとの会話を楽しめるカウンター席は予約で1カ月待ち。
オーナーですら予約がとれないと嘆く盛況ぶりで、2021年には農林水産省の「日本食普及の親善大使」にも任命された。
大きな武器の1つは客を楽しませる話術だ。
「Mountain Fuji, special Wasabi. First, no flavor(富士山の麓で採れた特別なワサビです。最初は香りがありません)」。
おろすまえの生ワサビを客の鼻先に差し出したかと思うと、おもむろにさめ皮おろしを取り出し「シャーク」と一言。
軽快なリズムの童謡「ベイビーシャーク」を口ずさみながら「シャークスキン。おろすと香りが立ち上ります」と説明すると、客の顔には笑顔が浮かぶ。
川崎さんがマレーシアに渡ったのは15年。
東京の大手すしチェーン店などで経験を積み、すし職人としてキャリアが22年目になったときだ。
英語は独学と実践で身につけた。
「正直いまもできていない」と笑うが、身ぶりを交えつつ食材の由来や調理の技を伝える腕は確かだ。
「日本よりエンターテインメント性を求められることが多く、歌ったり踊ったりしながらすしを握ることもある。
崩しすぎかなと思うこともあるが、節度を考えた上でお客さんとその場を楽しむようにしている」(川崎さん)。
言葉の壁のほか、思想や宗教上の食材の制約、現地スタッフとのやりとりなど大変なこともあるが、マレーシアですしを広める仕事は充実している。
海外ですし職人需要は膨らんでいる。
日本人料理人を海外に紹介する和食エージェント(本社クアラルンプール)では3月時点で月次の求人数が2年前の約17倍に増えた。
香港やシンガポール、中東などで求人が増加。
和食エージェントの小花馨コンサルタントは「新型コロナ禍が収束し、渡航しやすくなれば求人はもっと増える」とにらむ。
東京すしアカデミー(東京・新宿)が運営する寿司職人専門の求人サイト「SUSHI JOB」でも21年からヨーロッパを中心に求人が回復している。
通常営業が再開し、客足も戻るなか「職人が日本に帰国してしまったところも多く、空きの補充が必要」(同社)になっているためだ。
そもそも海外における日本食レストランの数は増加傾向だ。
農林水産省によると、海外の日本食レストラン数は21年に15.9万店。
新型コロナ禍の逆風の中でも増加基調が続き、この8年で約3倍に増えた。
「日本旅行に行きたいけれど行けない富裕層の需要をつかむため、日本人シェフを増やしたい店が増えた。
特に流行中のおまかせスタイルの高級店では客から日本人シェフが在籍しているか問われることも多いようだ」(小花氏)
日本→マレーシアで給料2倍も
海外に目を向ける料理人も増えている。
魅力の1つは給与などの待遇面だ。
マレーシアで働く川崎さんの場合、給与は日本にいるときの約2倍に上がった。
富裕層を中心とした現地の来店客からは今もひっきりなしに引き抜きの話が持ち込まれ、「今の給料の2倍出す」といった口説き文句もざらだ。
和食店求人サイト「Washokujob」を運営するConnect(コネクト、東京・新宿)によると、日本でのすし職人の年収は300万~500万円が中心。
一方、海外からの求人は550万~650万円がボリュームゾーンだ。
特に北米では新型コロナ後、給与のオファーがコロナ前比3~4割増の800万~850万円に上がっているという。
「飲食店が通常営業に戻ったことですし職人の取り合いになっているほか、円安で日本円換算の給与が上がった影響もある」(コネクトの濱友一郎取締役)
和食エージェントでは年収601万円以上となったすし職人の割合が海外店への転職により65%まで上昇した。
転職前に同水準の給与をもらっていた割合は0%だったが、国外では年収が1000万円を超えるケースも少なくない。
「日本の給与が上がらない中、海外を選択肢として視野に入れる料理人は増えている」(和食エージェント)
チップ文化がある国では「時期によっては給与と同じくらいのチップを得ることができるところもある」(SUSHI JOB)との声もあがる。
日本より税金が高かったり、物価水準が違ったりといった注意点はあるが、家賃補助が出るなどで総じて可処分所得は増えるとの声が多い。
労働環境の改善も魅力だ。
日本では繁忙期にはなかなか休みが取れないというすし職人も多い中、海外では「休暇の取得日数や有給消化率は日本よりも高い」(SUSHI JOB)傾向があるという。
和食ブームですしのスキルは世界で求められるようになった。
その技術に価値を感じ、より高い対価で報う市場は海を越えた先にあるのかもしれない。
すし教室、海外志向の職人育成
海外で働くためのキャリアプランとしてすし職人を選ぶ人も増えている。
「シャリ炊き3年、合わせ5年、握り一生」と言われてきたすしの技術を数カ月で教える東京すしアカデミー(東京・新宿)では生徒の80~90%が海外志向だ。
「受講者はこれまでになく増えている」と東京すしアカデミーの杉山ひろみ氏は語る。
「週末コースの応募が特に多く、クラス数を年に4つから8つに増やしたほどだ」(同氏)。
6カ月のすし職人養成コースに通う高橋克彰さん(31)は「将来はインドネシアで働きたい」と語る。
フィリピンに留学していたこともあり、日常会話程度の英語なら問題なく話せる。
「ワーキングホリデーに参加するつもりだったが、新型コロナ禍で行けなくなった。海外で働きたい思いが強く、システムエンジニアなども検討したが、やっぱりすしかなと」
あえて外国人向けの英語クラスを受講する日本人生徒もいる。
伝統的な江戸前の握りずしを中心に5週間で学ぶコースで、魚の英語名や調理方法の説明を最初から英語で学べる。
同コースを受講した日本人男性(21)は「将来はカナダか米国で仕事したい。修了後は飲食店などで経験を積み、いつか海外で自分の店をもちたいなと思っている」と話す。
飲食店の経営サポート事業を手掛けるG-FACTORY(東京・新宿)は10月3日にすし職人などを目指す人向けの「飲食塾」を立ち上げると発表した。
海外勤務経験を持つベテランすし職人らが血抜きで魚の鮮度を保つ技術や熟成魚のメニュー開発など、新鮮な魚の仕入れが難しい海外で役立つノウハウを教える。
すし職人の場合、受講期間は3カ月で、受講料や入学金などで計140万円ほど必要になる。
「海外志向の強い人からの問い合わせが目立つ。『とにかく海外で暮らしてみたいけれど安定した職をみつけるのも難しそう。ならば職人にかけてみるか』という考えの人が問い合わせしてくれているようだ」(飲食塾の宇都裕昭校長)
G-FACTORYの片平雅之社長は「日本には職人の育成環境が良いとは言い難い店もある。
寿司ならば何年も下積み扱いでろくにシャリを握らせてくれないうえに低賃金のままずっと働かせる店も多い。
あまりにももったいない」と立ち上げの理由を語る。
「ひとり立ちするために必要な仕入れなどのスキルも教えてもらえない。視野が狭くなり、海外で職人が活躍できることやもうかることを知る術も得にくい」(片平社長)。
卒業後は一部の卒業生をベトナムのすし店に派遣する計画だ。
ネックになるのは語学力を含むコミュニケーション能力だ。
国によっては就労査証(ビザ)の取得に数年間の店舗での実務経験に加え、英語能力テスト「IELTS」のスコアが必要な場合もある。
「居酒屋の厨房とは違い、すしはカウンター商売。客を楽しませてほしいというオーナーは多く、流ちょうでなくても、話す意志や意欲は求められる」(和食エージェントの小花氏)。
和食エージェントでは「カウンターで使える簡単英語」をメールマガジンで紹介。カタカナのルビ付きで、すぐに使える実践的な英語の文例を転職希望者に提供している。
料理長やマネジャーとして招かれる場合には調理だけでなく、仕入れや店舗運営、現地スタッフの指導など、総合力を求められることも多い。
責任は増えるが、異国の地で握りたてのすしを振る舞うやりがいはきっと大きいに違いない。